今年の3月に母が亡くなり、嗚咽するほどむせび泣いた。
こんなにむせび泣いたのは久しぶり。
むせび泣くとは「息が詰まるほど激しく泣いたり、声をのみこむようにして泣いたりするさま」。
子供の頃、毎年8月にテレビで「火垂るの墓」(監督:高畑勲)を観ては、毎回むせび泣いていた。
なぜむせび泣いたのか?
それは、純粋に生きようとする子供の命が奪われるという悲しみ、理不尽さへの怒り。
そもそも大人が集団で人殺しの戦争を起こしているという、大人への不信感。
私は、本当は大声で泣きたかった。
でも一緒に観ていた家族が冷静だったので、私は感情をちょっと抑えて、むせび泣き。
今までで強烈にむせび泣いたのは、映画「沈黙を破る」(監督:土井敏邦、2009年)。
こちらは、イスラエル軍の包囲や殺戮にさらされるパレスチナの人々の生活を追うドキュメンタリー映画。
「沈黙を破る」とは元イスラエル兵士たちが開いた写真展のタイトルで、彼らは写真を通して自らの真の加害行為を告白する。
私はこの映画をポレポレ東中野で観て、強烈にむせび泣いた。
上映終了後もしばらく立ち上がれず、嗚咽しながら帰った記憶がある。
なぜむせび泣いたのか?
それは、人間の存在そのものへの絶望。
攻撃で亡くなった被害者とその家族の思い、それが新たな加害者と新たな被害者をうむという、加速化する終わらない悪循環。
それぞれの被害者と加害者とその家族、みんなに感情移入して観てしまい、心がズタズタになってしまった。
さらに、正義感溢れるアメリカ人ボランティアと、彼女に強い嫌悪感をあらわにするパレスチナ人たちにも。
元イスラエル兵士たちが写真による告発をしたのがせめてもの救いだが、もう私の心は絶望感でいっぱい。
次の日、マッサージの仕事では体に力が入らず、気を抜くと涙がでてしまう。
これはまずいと思い、映画で受けたダメージを映画で癒してもらうべく、仕事後にレイトショーへ。
たまたまやっていたのが「グラントリノ」(監督:Clint Eastwood)。
例の如くの「やってやられて」の悪循環を、最終的に主人公は自分の体で止めた!
「そんな止め方があったのか!」と猛烈に感動した。
おかげでだいぶ心が落ち着き、次の日からはちゃんと仕事ができるようになった。
今まで私がむせび泣いたのは、心の根源的なところが揺さぶられた時。
私にとって母の存在は大きく、それだけ母への執着も大きい。
私が母の死でむせび泣いたのは、巨大な喪失感が理由。
その心の様子を「ヨーガ・スートラ」で分析するならば、煩悩(特に無知・我想・愛着)に満ちた、誤った認識(心の作用の1つ)か。
人生やり切って亡くなった人は、案外この世への未練はないのかもしれない。
「2025/9 「むせび泣く」を考える」に2件のコメントがあります
maki
(2025年10月18日 - 8:39 AM)お母様のご逝去のこと、心よりお悔やみ申し上げます。
どんな言葉をかけていいかわからないけれど、本当に辛いと思います。無理しないでくださいね。
Amrita
(2025年10月19日 - 9:49 AM)マキ先生、お心遣いありがとうございます。私は元気にやってます。太宰府はやっと秋らしくなってきて、良い季節です。お待ちしてますー